内 向 型 革 命

- 内向型人間が快適に暮らし、社会に革命を起こすための指南書-

「コレラ」と「コロナ」~未知の感染症の中でみる人の本質と倫理観~

NHKの新しい連続テレビ小説「風、薫る」において、コレラという未知の病魔が平穏な村を襲い、感染した人々が次々と社会から切り離され、強制的に隔離されていく場面が描かれていた。
家々に張られる忌み札、怯える村人たちの眼差し、そして愛する家族を引き裂く冷酷な境界線。
その映像を眺めているうちに、私の脳裏には数年前の記憶が生々しく蘇ってきた。
それは、全世界を震撼させた新型コロナウイルス感染症のパンデミック初期、私たちが直面したあの異様な光景である。
科学の進歩によって文明は飛躍的に向上したはずなのに、未知のウイルスに対して人類が取った手段は、数世紀前のコレラ流行時と本質的に何も変わっていないのではないか。
私たちは結局のところ、ロックダウンという名の壁を築き、感染者を「他者」として排除することでしか見えない敵と戦う術を持たなかったのである。

歴史を振り返れば、コレラは「虎狼痢」と恐れられ、共同体を一瞬にして崩壊させる死神として描かれてきた。
当時の人々にとって、感染は単なる不運ではなく、平穏な日常を破壊する「汚れ」であり、隔離は共同体を守るための絶対的な正義であった。
そして現代の日本においても、私たちは同じ正義を振りかざした。
スマートフォンの画面越しに感染者数を確認し、県境を越える移動を「悪」と断じ、自粛に応じない者を「非国民」のように扱う
デジタル化された監視社会の中で行われた行為は、江戸時代や明治時代に村人が松明を手に感染者の家を遠巻きに眺めていた心理と地続きのものだった
技術は変わっても、未知の恐怖に直面した時の人間の防衛本能は、驚くほど原始的なままである。

新型コロナウイルスの感染拡大が本格化した際、私は自分なりにこの未曾有の事態への向き合い方を考え抜いた
最も重要かつ優先されるべきは、物理的な移動を最小限に抑え、感染の連鎖を断ち切ることである。
それが公衆衛生に寄与し、ひいては医療崩壊を防ぐ唯一の道だと信じたからだ。
幸いにも私の職種は、工夫次第でリモートワークが可能な内容であった。
私は積極的に在宅勤務を申請し、不急の外出を控え、オンラインで完結できる業務フローを自ら構築しようと試みた。
それは個人の利便性を追求した結果ではなく、社会の一員としての責任を果たそうとする、私なりの誠実な意思表示であった。

しかし、私が目にした現実は、あまりにも理想とはかけ離れていた。
会社の多くの人々、特に意思決定権を持つ年配の幹部層は、緊急事態宣言下であっても平然と満員電車に揺られて出社を続けていた
彼らにとって「仕事」とは、同じ空間に集まり、顔を突き合わせて長時間過ごすことと同義であったのだ。
確かに、従来通りのやり方で出社して仕事をした方が、コミュニケーションの摩擦は少なく、効率的だと感じる場面もあるだろう。
だが、それはあくまで「平時」の論理である。
世界が、そして日本中が一致協力して感染拡大を防ごうと苦闘している最中に、彼らが優先したのは社会的な安全ではなく、自分たちの地位の保身と既存の体制の維持であった。

彼らの言動を観察していて感じたのは、組織に対する忠誠心というよりも、むしろ強烈な自己保身の念であった。
自分が出社し、そこに存在感を示し続けなければ、自分の地位や評価が揺らいでしまうのではないかという恐怖
あるいは、新しい働き方に適応できない自分を認めたくないというプライド。
彼らは「会社のため」「責任感」という美名の下に、結果としてウイルスを運ぶリスクを冒し、社会全体の抑制努力に水を差していた
私には、彼らがまるでコレラの村で、禁じられているにもかかわらず「自分だけは大丈夫だ」「これは伝統的な儀式だから」と集まり、結果として禍を広めてしまった人々と重なって見えたのである。

リモートワークを徹底しようとした私は、当然のように組織の中で浮いた存在となった。
連日のように出社している上司からは、暗に「やる気がないのか」「サボっているのではないか」という疑念の視線を向けられた。
会議の合間に交わされる雑談から排除され、重要な決定事項がいつの間にか対面で会っている者同士だけで決まっていく
周囲の同僚たちも、上司の機嫌を伺うようにして出社を再開し、在宅を続ける私を「輪を乱す者」として扱うようになった。
組織からの無言の圧力、そして公然と向けられる非難の言葉。
それは過度の精神的ストレスとなり、私の心身を次第に蝕んでいった。
結局、私はその会社に居続けることができなくなり、志半ばで退職の道を選んだ。

しかし、時間が経過した今、私はあの日々の自分の行動を深く誇りに思っている。
当時の私は、自分自身の経済的な利益や組織内での安泰を犠牲にしてでも、社会全体の利益のために行動した
それは誰かに強制されたからではなく、自らの倫理観に従った結果である。
一方で、私を追い詰めた人々はどうだろうか。
彼らは今も、古い価値観に固執し、組織という小さな檻の中で自分の地位を守ることに汲々としている。
彼らが選んだのは社会への貢献ではなく、ただの「逃避」であった。
未知の事態に対して勇気を持って変化を受け入れるのではなく、慣習にしがみつくことで安心を得ようとしたに過ぎない。

世の中は、往々にして身勝手な人間が短期的な利益を掠め取っていくように見える。
ルールを守り、利他的に行動する人間が損をし、要領よく保身に走る人間が賞賛される。
それは歴史上のコレラ流行時も、そして現代のコロナ禍においても変わらない不条理かもしれない。
だが、私は長期的な視点に立てば、世界は決してそのようにはできていないと信じている。
その場しのぎの保身で得た地位や名声は、本質的な変化の前にはあまりにも脆い。
かつてコレラが社会の衛生環境を一変させ、近代的なインフラ整備のきっかけとなったように、コロナ禍もまた、私たちの働き方や生き方の不条理を浮き彫りにし、新しい時代の扉を開いたのである。

会社を辞めた直後は、将来への不安と悔しさで胸が締め付けられるような思いをしたこともあった。
しかし、今振り返れば、あの場所を離れたことは私の人生において最大の幸運であったと断言できる
もし、あのまま周囲の圧力に屈して、無理に出社を続けていたらどうなっていただろうか。
私は今でも、非合理なルールに縛られ、自分の頭で考えることを放棄した「社畜」のまま、上司の顔色を伺いながら生きていたに違いない。
自分を偽り、社会への責任に目をつむり、ただ組織という延命装置にぶら下がるだけの人生。
それは、肉体は健康であっても、精神においては死んでいるも同然である。

退職を機に、私は特定の組織に依存しない働き方や生き方について、真剣に見つめ直すことができた
場所を選ばず、自分のスキルを直接社会に提供し、自らの価値観に誠実に生きる。
そのような生き方を追求する過程で、私はかつてない自由と充実感を手に入れた
会社という狭いコミュニティの中での評価など、広大な世界から見ればいかに矮小なものだったかを痛感している。
未知のウイルスがもたらした災厄は、私から一つの居場所を奪ったが、代わりに自分自身の人生を自分の手に取り戻すという何物にも代えがたい機会を与えてくれたのである。

コレラにしろ新型コロナにしろ、感染症は人間の弱さと強さを同時に暴き出す鏡のような存在だ。
恐怖に駆られて他者を排斥し、自らの保身に走る人間の醜さ。
その一方で、理性に基づき、困難な状況下でも正義を貫こうとする人間の高潔さ。
後者の道は険しく、時には社会から孤立することさえある。
しかし、嵐が過ぎ去った後に残るのは、安易な道を選んだ者たちの後悔ではなく、信念を持って歩み続けた者たちの確かな足跡である。

私はこれからも、自分の行動に責任を持ち、たとえそれが主流派とは異なっていようとも、自分が正しいと信じる道を選び続けたい

会社という守られた空間の中で保身に走るのではなく、荒野であっても自らの足で立ち、社会の一員として何ができるかを問い続けたい

あの時、隔離されるかのような孤独の中で決断した経験が、今の私の揺るぎない背骨となっている

未知の感染症が私たちに突きつけた問い、それは単にどう生き残るかではなく、いかに人間としての尊厳を保って生きるかということだったのではないだろうか。
私はその問いに対し、少なくとも自分自身を裏切らなかったという誇りを持ってこれからも新しい時代を歩んでいくつもりだ

 

 

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